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誰の人生にも、思い出すだけで胸が締め付けられるような「忘れられない人」や、理由も分からないまま止まってしまった「過去の記憶」がひとつはあるのではないでしょうか。
今回お届けするのは、ある男性の身に起きた、切なくも温かい実話をベースにした愛の物語です。
若き日の突然の別れ。理由も分からぬまま恋人を失い、心を閉ざして生きてきた主人公の「春男」。しかし、30年の時を経て訪れた思い出の駅で、彼は引き裂かれた過去の「本当の理由」を知ることになります。
裏切られたと思っていた記憶の裏に隠されていた、あまりにも切なく、深い愛の真実とは――。
今回は、記事の最後に「朗読音声(動画)」もご用意しております。お好みのスタイルで、止まっていた時間が動き出す奇跡の瞬間を、どうぞ最後までじんわりとお楽しみください。
本文
初夏の強い日差しが、ローカル線の古い木造駅舎を
オレンジ色に染め上げていた。
出張の帰り道、私はふと思い立って、
予定にない途中下車をした。
山あいにひっそりと佇む、無人の改札口。
パタパタと音を立てる古い時刻表。
30年前と、驚くほど何も変わっていない。
私の名前は春男、55歳。
この駅は、私が人生で最も人を愛し、
そして、最も深い傷を負った場所だった。
20代前半のあの日、私の隣にはいつも、
向日葵(ひまわり)のような笑顔の結衣がいた。
東京の大学を卒業し、地元に戻って就職した私と、
地元の小さな図書館に勤めていた結衣。
私たちはこの駅のベンチで、
よく将来のささやかな夢を語り合った。
「いつか、小さな庭のある家に住んで、
夏にはたくさんのひまわりを植えようね」
結衣はそう言って、私の手を優しく握りしめた。
不器用な私は、ただ照れくさそうに頷くだけだった。
彼女と過ごす時間は、永遠に続く。
当時の私は、何の疑いもなくそう信じていた。
しかし、別れはあまりにも突然、
前触れもなく訪れた。
約束していた夏のデートの日。
結衣はこの駅に現れなかった。
携帯電話がまだ普及していなかった時代。
何度も彼女の家に電話をかけたが、繋がらない。
翌日、結衣の自宅を訪ねると、
家の中はすっかりもぬけの殻になっていた。
近所の人に聞いても、夜逃げのように
急に引っ越してしまったとしか分からない。
私の机に残されていたのは、
「もう会えません。探さないでください」
とだけ書かれた、短い置き手紙だった。
「どうして……何も言ってくれなかったんだ」
裏切られたという怒りと、理由が分からない絶望。
私は毎晩、自分を責め、彼女を恨んだ。
私の心の中の時計は、あの夏、
このひまわりの駅で完全に止まってしまった。
それからの30年間、私はただ仕事に没頭した。
誰かを深く愛することを恐れ、
孤独であることに慣れようとして生きてきた。
「あの、もし違っていたらすみません……
もしかして、春男さんですか?」
ふと、背後から掠れた声に呼びかけられ、
私は我に返った。
振り返ると、そこには白髪の混じった、
駅前の古い商店の店主が立っていた。
「あ……はい、春男です。お久しぶりです」
店主は私の顔をじっと見つめると、
深く息を吐き、目元を潤ませた。
「やっぱりそうだ……。ずっと待っていたんだよ。
君が、もう一度この駅に現れるのをね」
店主はそう言うと、店の奥から
茶色く色褪せた一通の封筒を持ってきた。
「これはね、30年前のあの夏、
結衣さんが『いつか彼が来たら渡して』と、
涙を流しながら私に託していったものだ」
震える手で、私はその封筒を受け取った。
中に入っていたのは、小さなノート。
結衣が書き綴っていた、日記だった。
私はベンチに座り、ページをめくった。
そこには、あの日、彼女が私の前から
姿を消さなければならなかった、本当の理由があった。
『〇月〇日
検査の結果が出た。嘘みたい。
私の身体の中に、悪い病気があるんだって。
お医者様は、長く生きるのは難しいと言った。
頭が真っ白になって、真っ先に春男の顔が浮かんだ。』
『〇月〇日
春男は、来月から新しいプロジェクトに抜擢されて
夢に向かって走り出すと言っていた。
あんなにキラキラした目で未来を語る彼の姿を、
私の病気で曇らせたくない。
私の看病のために、彼の人生を奪いたくない。』
『〇月〇日
決めた。私は春男の前から消える。
優しくお別れを言ったら、彼はきっと私を追いかける。
だから、大嫌いになってもらえるように、
何も言わずにいなくなろう。
春男、ごめんね。ごめんね。
本当は、ずっとずっと、あなたの隣にいたかった。』
日記の最後のページは、
涙で激しく滲んで、文字が歪んでいた。
『春男へ
私のことは、どうか酷い女だと忘れて。
そして、あなたの未来を、
ひまわりのように真っ直ぐに歩んでください。
私を愛してくれて、本当にありがとう。』
「ああ……う、あ……」
喉の奥から、言葉にならない嗚咽が漏れた。
視界が涙で激しく歪み、日記の上に大粒の涙が落ちた。
裏切られたと思っていたあの夏。
彼女は、自分の命の火が消えゆく恐怖の中で、
何よりも「私の未来」を守ろうとしてくれていたのだ。
私は、彼女に恨みの言葉を投げかけていた
自分の無知さと、彼女の深い愛に、
ただただ涙を流すことしかできなかった。
「結衣……ごめんな、気づけなくて……
ありがとう……俺を愛してくれて……」
駅舎を吹き抜ける夏の風が、
優しく私の頬を撫でていく。
まるで、結衣が涙を拭いてくれているかのように。
店主の話によると、結衣はその年の冬、
遠くの病院で静かに息を引き取ったという。
彼女はもう、この世界のどこにもいない。
しかし、私の胸を満たしているのは、
かつてのような絶望ではなかった。
30年間、冷たく止まっていた私の心に、
結衣の変わらぬ愛という、温かい灯がともった。
「私は最高の女性に、命がけで愛されていたんだ」
その事実が、私のこれからの人生を
支えてくれる確信へと変わっていく。
私は立ち上がり、涙を拭った。
空を見上げると、夏の太陽が眩しく輝いている。
駅のホームの片隅には、
今年も力強く咲き誇る、ひまわりの花があった。
「結衣、見ていてくれ。
俺、お前の分まで、精一杯前を向いて生きるよ」
私は日記を大切に鞄にしまい、
ゆっくりと、前を向いて歩き出した。
止まっていた時計の針が、
今、確かな音を立てて、動き始めた。
